瞑想で1,感情を落ち着け,2, 無我になり,現実から解離して,3, 何かと交信して,神通力を得て,4, 覚醒して,解脱して,立派な人格になる。瞑想で心を保ち,精神は高まる。瞑想家はこういう生き方を実践する人が多い。

 精神の段階を上がる
 が,ここではそういう瞑想の生き方ではなく,瞑想で精神の深みに入り,段階を上がると,どんな生き方を身につけるかを検討する。欲求は5段階だ。肉体的な欲求を満たすと,より高次の欲求を求める。精神の段階はそれと似る。より高い精神は,より高い段階の人がもつ。精神の段階は,心の原理である。

 仏教の段階
 四向四果という修行の段階がある。仏教では瞑想の深さは9段階にわける。色界四禅,無色界,送受滅などである。これは段階が進むにつれ,感覚がなくなり,意識も低下する。心の段階とはやや異なる。解離がいかに進むかというものにみえる。私はそれに近いものをみつけている。が,私の瞑想では,解離を伴わない。仏教の説明とは異なる。これは無我に至る。解離するものと,しないものとの差は,何かはこれらか調べる。これらが仏教の段階だ。

 色界では五蘊の境地を下から体験する。色蘊で肉体の欲求を感じる。受蘊で五感にひたる。想蘊で知覚の作用を学ぶ。行蘊で運動を悟る。識蘊で理性や論理、認識を知る。仏教ではそれらを観察して、通り過ぎる。その間に,五智の境地を体験する。そして,無色界にあがる。

 これら段階で体験することを細かく,意識する必要はない。ただ通り過ぎる。僧侶で段階のテーマを理解して,マスターする人は稀である。これは解脱に至る瞑想と区別する。無我になり,無感覚になり,何も考えないものとは異なる。瞑想ではそれらをうっすらと感じる。瞑想で精神の段階を急いで感じ,その表面を知る。詳しくは学ばない。

 仏教の問題
 五蘊が心の段階を示すが,正確でない。段階の詳しい説明がない。空の理論に偏重する。ものが存在しない理由の無常,無自性は,西洋の哲学では通用しない。仏教の用語は哲学ほど厳密に正しくなく,誤りがおおい。現状,仏教は大勢の瞑想者の数々の知見が蓄積されているが,宗派により違うものもあり,個人ごとの見解も違うことが多く,見解は統一されていない。

 瞑想を行い,内面を通して,何かを知る。目をつぶって行う学習は効果的でない。目を開けて学ぶほうがよい。内面を観察して,段階のテーマを意識することは難しい。また,段階のテーマを実践することもほとんどない。例えば,社会がテーマとなるとき,コミュニケーションや組織運営を体験しなくてはならないが,じっと座禅を組んでそれを実践できない。瞑想で段階の知見を獲得して,それを解決する技能を修得することはほぼ無理である。

 精神の段階を上がる 発達心理
  発達心理の段階とは,エリクソンが青年期の心理は段階ごとに変わると明らかにしたことから始まる。諸説あって,人生全体の理論はない。私は青年期の発達心理を明らかにした。大学生になると,みなが社会に関心をもつ。社会運動をする。この時期のテーマは「社会」だ。高校生では,合理的なものに興味をもつ。高校生の関心は「合理性」,「理性」だろう。中学生は,運動ができるスポーツマンがかっこよく思われ,「力」の強い者に憧れる。中学生のテーマは「運動」である。

 こちらは,その年令になると自然とそのテーマに関心をもつ。これは遺伝子に決められており,環境に左右されない。ある年齢になると,一斉に特定の関心をもつ。

 発達心理で幼児から大人になるまでの関心の変化と同じだ。0-3才で食う飲むを覚え、3-6才で五感の使い方や限界を知り、ものを上手に見て、音を聞く方法を知る。知覚とは、感覚したものを区別することで,モノの名前を知ることだ。これは小学生頃の課題だ。人はそれら1段階を3年かけ、感じ、学び、それら欲求の真の意味を考え、その観点の生き方とその欲求を満たす方法を覚える。そして、次第に高い段階のテーマをを体験する。これらをよくこなした者は、生き方の基礎から、応用までしっかり理解して,哲学が優れた者になる。

 心理学の問題
 ピアジュの理論は細かすぎる。心の中に仏がいる,超能力などの説明もできない。道徳も心理学で示せない。発展途上の学問で,体系に不備が多々ある。心理学は始まって百年の未熟な学問で,深い洞察はない。しかし,一つ一つは確かな法則を提示できる。

 段階に即した生き方の対比

仏教
 ・段階が解明されていない
 ・その段階の欲求や関心を『煩悩』とみなし,否定する。感じなくする
 ・段階の欲求と関心を感じなくする,考えなくするように,心をする。実践で。解離する
 ・仏教は,世俗(物理世界)での処世術は何も学ばないが,心の仕組みは学ぶ

発達心理
 ・段階が不明だ。正しい発達心理のモデルが普及していない。
 ・段階の欲求や関心を,本人のテーマとして,その対象を認識することを目指す。
 ・その段階のテーマをこなす方法を実践して,身につける。習得する。
 ・こちらは物理世界で生きる方法を学び,習得する。

 仏教と発達心理は,成長の段階が似る
 瞑想で心を深く入ると順にテーマをもつ。これは誰しも同じだ。仏教では五蘊の色界で色,五感,知覚,行,意識とする。発達心理も,同じテーマとなる。それは,肉体的欲求,五感,知覚,運動,理性の順序である。両者は似る。瞑想で深く入ると発達心理と同じ段階を進む。

 心の段階に即した生き方について,仏教にこだわらない
 瞑想で心の内奥を知らなくても,脳科学や心理学で心を知ることができる。心の中を知るのは瞑想でなくても,心理学の実験,脳科学の研究などでもできる。発達心理という形でも,明らかにされる。仏教は瞑想を通じて,心を明らかにする。科学というもので心を明らかにする心理学もある。心の本質を知る点では,両者は同じものだ,ということ。心理学も心の深いことが明らかにされると,仏教と同じことを言うようになるだろう。つまり,心の真理は,瞑想の知見に限定するのはおかしい。心理学はまだ頼りない。が,一つずつの法則をあらき可にする。その積み重ねで,やがては心理学は発達心理を完成させるだろう。心理学的なものに収斂するだろう。

 段階に即した生き方とは
 その段階のテーマに気づき,それに関心をもつ。それを感覚して,その認識する。さらにそれを実現する方法を身につける。これをこなして,生きることだ。これは遺伝子によって,万人が等しくこれを行う。

 年齢ごとに,その年令特有のテーマがある。この内面の欲求に応える生き方だ。なお,この発達心理上のテーマの解決しつつ生きることは,現状,当人は自覚しないまでも,誰でもやっている。これをするために,社会的な活動を全くしない,仕事や勉学をしないということではない。同時並行にできる。これは本来の人間の成長である。

 これは瞑想で心の深奥に入り,体験することと同じだ。発達心理である年齢でこれを体験することのほうが,より詳しく,その関心,課題などがみえてくる。
 
 仏教では,心の健全な発達を期待できない。発達心理を解明して,個々人の関心を明らかにして,その遺伝子に刻まれた成長プロセス,その時の関心を満たすように体験を用意して,学ばせることが大切である。発達心理学に基づく,教育が必要だ。

 発達心理をこなす上での瞑想の位置づけ
 瞑想で,自分の段階を上げるというのはあってもよい。が,年齢があがると自然と段階が上がり,テーマもやってくる。その自然な成長を第一とする。瞑想はそれを補完する時に役立つ。瞑想で内面をみつめることで,自分の関心を自覚できる。心落ち着けないと,自分がその年令で何を求めているかは,世俗に忙殺されてできない。その時に,瞑想が手助けとなる。

 瞑想では,過去の段階に遡ることができる。大人になってから,若い頃の感覚をリアルに思い出すのは難しい。が,瞑想では簡単に青年や幼児の感覚を取り戻せる。それは瞑想で段階が低い所にゆくことで,体験できる。

 まとめ
 精神の段階を一つずつ上がるのは,発達心理にまかせておく。瞑想で自然な成長に逆らって,あえてそれを体験するのは,特異な場合のみでよい。瞑想ではよほど,心敏感にならないと,段階ごとに生じる関心がよくわからないためだ。ほとんどの瞑想家はわからないといっても過言ではない。年齢ごとに必要な学習をすることで,一つずつ精神を基礎から育て上げることができる。

 瞑想は援用できる。瞑想では,段階のはじめから追体験できる。大人になって,若い頃の段階は何だったか。忘れた時に,その段階にゆくことで,どんな関心をもつのか,世界観はどうかがみえてくる。また上の段階にゆくことで,これからどんな関心をもち,どんな価値観になるかを体験できる。しかし,発達心理を順序よく学ぶものでない。確認のために使うくらいだ。瞑想は,このように用いることができる。

以上