私は大阪の瞑想の達人です。今日は、段階5の理性を説明します。 ここは空を感じ、菩薩の心を感じる段階です。

 
発達心理表
stage10_20201031
テーマ - 理性
 段階5のテーマは「理性」です。論理学のような思考を身に着けます。合理的なものに関心がゆきます。理性の本質はPCのように演算処理、計算です。また自然の法則をみつけます。段階4では運動をとらえました。その運動の原理を察知できます。直進運動、重力、放物線など。瞑想者は法界体性智を経験します。 

 この段階で「空」を感じます。ここの認識は、感情や感覚から切り離されたものです。これまで、感覚→知覚、感覚→運動を見出しました。ここからは感覚という一次情報を扱いません。知覚(概念)や運動などを感覚から生じた二次的な情報を扱います。

仏教では「識」と呼びます。

 そのため、感覚から切り離された自由な自己を感じられます。この自己は外世界から離れているため、「空」の状態にあります。が、空は無ではありません。「空」でも自己の想いがあります。空を感じている「自己」はいます。

 仏教の段階
 段階5は識蘊です。識蘊は五蘊の5番目です。この段階から後はすべて「識」なので「空」と分類できます。五智の最も上の法界体性智の境地をこここで体験できます。無色界(4禅)の最初の段階で空無辺処も悟れます。この段階に到達した者は、菩薩です。

 段階5- 理性
 この段階では合理的なものを求めます。その合理化する対象は認識、運動、理性(法則)、社会、空間の順にです。 各小段階のテーマはおおよそです。 前半に彼は法を知ります(帰納)。後半では、彼は物事に法則を適用します(演繹)。法則を活用することを覚えます。この段階で科学的な精神を会得します。

前半-自然法則を認識する
1、物事-単純な自然法、演繹する
2、運動-運動の法則
3、法則-論理、数学
4、社会-社会法、人間の法則
5、空間-空間の理論

後半-法を実践する、法則を利用する。
6、物事-帰納、単純法則を応用する
7、動き-物理学による予測
8、法-計算する
9、社会-社会法、人権(法律)を作ります
10、空間-建築力学

前半は純粋な理性(物理法則、理論、論理)を得ます。 後半は実践です。

 段階5に到達する方法
 段階4の終わりに、瞑想者は自然の動きを観察します。 彼は宇宙全体で、細かい動きをすべて感じられます。彼の内なる世界は暗くなります。 それが最後のポイントです。 その後、明るくなります。 目を開けると、運動の軌跡だけがみえます。運動の法則をまず気づきます。また感情や世俗的な重圧などのしがらみから解き放たれ、心が軽くなっています。空を感じます。これが段階5の始まりです。

 瞑想の方法
 瞑想者は動くものから自然の法則を捉えられます。目を開いて、動きや配置を感じて、それがどういう仕組なのかを考えてください。法則に気づけます。合理的なものも感じられます。

 空とは
 段階5で、目を閉じると彼は空を感じます。 今まで、欲(生理学的ニーズ)、感情、世俗的なものに縛られていました。が、彼の心はそれらから解放されていることを感じます。なぜなら、感覚・欲求という一次情報ではなく、そこから得られた知見、知識など2次情報で判断するのがこの段階の自己だからです。

  この段階では感情が低下します。彼は世俗的なことへの興味が薄れます。僧侶はこの心の状態を「空」と呼びました。 しかし、自己があります。 思考だけがあるのは無色界の最初の段階です。

 空では、自己に実体がないか?
 実体がないというのは、外の物理世界における存在ではないということです。本当に、空を感じている時に、自己はこの物理世界に存在しないのでしょうか?

 まず空の状態では、それを認識する自己は存在します。瞑想の目、瞑想中の観察者としての自己です。よって、空は無ではありません。

 何によって瞑想中に、空の状態を感じるか?
 空は、物理世界を遠くに感じる体験です。五感の影響を受けにくく、心が独立した状態です。それが空の感覚です。感情や行動、感覚に縛られにくい心です。仏教の瞑想では、それを究極にまで高めようとして、五感を遮断します。瞑想のそういう技を仏陀が誇りました。嵐の夜で雷が落ちても、気づかなかったなど。仏教では今なお、それが瞑想の上級者としてのステイタスになります。感覚の遮断を瞑想で、自在に行えるのは役立つかもしれませんが… 世界の事に鈍感になり、自分の空に閉じ込もるのは現代的な観点からすると、世界から心を隔離することです。世界を制覇することとは逆なので、そんなに価値あることと私は考えません。

 空の達成度は、感覚遮断の度合いです。自己、五感などが存在しないわけではありません。

 菩薩
 なぜこの段階が菩薩と言われるのでしょうか? アーラーラ仙人がブッダに教えた段階はここより上でしょう。ですが、チベット仏教ではここより一つ上の段階を如来部と呼びます。如来の下は菩薩です。

 もっと深い理由もあります。天国に10次元の段階があります。ここの段階の精神・哲学を獲得すると、7次元にゆきます。そこは菩薩が住む所だからです。

 発達心理学 16-18歳のテーマ
 段階5は、16〜18歳のテーマと同じです。 16歳から人は理性をもちます。彼は合理的なものに興味がゆきます。不合理なものを拒否します。反抗期の二段階めです。最初の反抗期は、親の干渉を排除して、自分で運動することです。
 この段階では自分で判断することにこだわります。親、他人から指図されることを好みません。自分で考える力をつけることが、この段階の後半の課題だからです。
 言葉、思想史の中に、合理的なものを見出すこともします。 彼は法則(自然社会その他)や合理的なものに関心をもちます。それを学ぶ強い意志を持ちます。 彼は知恵を極めたくなります。

 n%未満の人がこの段階の哲学(合理的な自己)、内向的理性を持ちます。彼はやや賢いです。 彼は外の世界にあらゆる法則をみつけます。彼は理性的です。概念や定義で悩むことは過ぎ、運動論の世界観を超え、全てに法則を見出す合理的な知見を持ちます。

 不合理な考えは信じません。明るい社会観を持っています。 彼はまさに科学の精神をもっています。彼は首を素早くクールに回す習慣があります。

 空の境地
 空とは、感覚や知識を感じない心の状態です。実体がないこと(wiki)。「我もない」という解釈がありますが、空を感じる自己はあるわけで、自己が消えた状態というのは誤りです。実体とは外の世界という「感覚で得られた世界」ですので、空の状態では感覚は切り離されているので、ないと同じです。これは実体世界のことから、心が惑わされにくくなることで自覚できます。しかし、段階5以降も、いくつかの世俗に心煩わせられるため、空になっても、社会や外の事物にまったく無関心というわけにはいきません。

 そもそも瞑想の一つの精神状態です。教義となった時に、様々な解釈がなされましたが、それらの一部は誤りです。段階5以降は、ずっと空を感じられます。

 法界体性智
 法界を感じられる境地です。絶対真理の世界を受け取る智慧(境地)とも言われます。真理とは物理法則や科学の法則です。英語では"The wisdom of the essence of the dharma-realm meditation mudra" 法の原理を知る智慧ということです。法則を感じるのは、まさにこの段階の心境です。
 この段階では、法(自然法則、人間の法則はダルマ)などに関心がゆき、それを身に着けます。段階が進むと、より多くの法に気づき、それを常に意識します。法界体性智など無色界は段階末期の境地です。

 具体的には、みえるもの全て、宇宙に大きな法則から小さな法則まで感じられます。この境地はあらゆる法則を知り、観察できる学者のような世界観です。

 空無辺処
 このステージ5の終わりには空無辺所という境地を感じられます。「物質的存在がまったく無い空間の無限性についての三昧の境地。~大空は無限であることを達観すること。無色界には空間的な場所はない(wikiより)」。
 空間を感じないのは、そこに法則的なものしか見ないからです。無色界の他の境地は、段階末に感じます。よって、これは段階5の末期の境地です。「空無辺の理を解し」とは宇宙の法則を理解するということで、あってます。法には「作為はない」です。

 瞑想者は目を開き、世界を観察したほうがよく、この境地を理解できます。

 解離の方法
 解離は認知と運動の2種類あります。解離の方法は別記します。
 
 段階前半の解離では、瞑想者は思考を停止します。論理的な思考ができません。
 段階後半の解離ではアストラルボディ(幽体)を体験できます。瞑想で白く輝きます。奥に入ると、光の螺旋を感じます。そこをあがると、アストラル体は彼の体から出ます。 それは飛ぶことができます。 それは一瞬で遠くに行きます。 彼が望むところに行けます。

 練習 誘導瞑想
 次の言葉を考える。 「日本製の力で、******を体験させてください。どうぞ。」 そして、瞑想しよう。誘導瞑想を体験できる。***には下記の数字か瞑想したいものの名を入れる。

このブログをネットで見た当日のみ、体験できる。1回につき3-5分。時間を2時間まで指定できる。やめたいと思うとすぐに終わる。例外もある。

1〜10各ミニステージ、各テーマ
11、ステージ5に到達するまで
12、空 (段階初期の)
13、瞑想者が世界の外で法を見つけた状態。(法界体性智)
14、無限の空間での瞑想(空無辺処)
15、解離 段階前半 思考停止
16、解離 段階後半 アストラル体

できたら、自分の力で試してみましょう。

 ルネ・デカルトの理性
 「我思う故に我あり」 ルネ・デカルトの「方法序説」の名句です。 彼は自分の感覚、現実と夢、共通の信念、神と彼自身を疑いました。 彼はそれらがあやふやなもので、確実なものは自己しかないことに気づきました。 彼の自己は、数学ができ、判断を下すことができました。それは純粋理性でした。

 彼の理性哲学は瞑想の理論で説明できます。 デカルトは感覚、知性、運動を疑い、それを心から取り除きました。 デカルトはそんな自分を観察して、何もないことに気づきました。それは空の状態そのものです。その時に、それを観察する自己が存在することに思い至りました。彼のしたことは瞑想の理論とよく似ています。

 彼は通常の瞑想者とは異なっていました。 デカルトは彼自身が観察者として、いることに気づきました。仏教では、空は何もないとされます。デカルトはそこに観察者としての自己があることに気づきました。そして、観察者としての自己とは何かを徹底的に考え、「理性(数学的な思考、概念?)」としました。仏教は、観察者としての自己を深く考えません。デカルトは、仏教哲学を一つ超えました。

  デカルトは理性の存在を確立しました。彼は数学者でした。 彼は自分が理性であることに気づきました。 彼はそれに基づいて理性の哲学を作りました。 彼は段階5の哲学を明らかにしました。 このあたり段階5の解明どあいは仏教哲学の唯識を超えたものとなっています。千年以上後の理論なので、デカルトのほうが先進的なのは当たり前です。

 デカルトは理性の哲学の初期です。イマヌエル・カントは理性の哲学を発展させました。カントは「実践的な理性」の哲学を示しました。彼は理性が悟性(感覚や知覚)ともつながっていることを明らかにしました。

なお、理性の哲学は、「精神哲学」でヘーゲルによって理性を発展させる道筋が明らかにされ、論理学によって、完結しました。理性の真の姿は、論理学です。

PCは論理演算するでしょう? 理性は論理演算なのです。

 質問はありますか? コメントを書いてください。

 また。

2020/10/31 修正