仏教における涅槃
 涅槃とは今日の仏教では煩悩を取り去り、ゆきつく静かな境地だ。それは瞑想して、無になり、真っ暗な闇にたたずむことだ。が、本当にそんなものなら、涅槃は無や暗黒であり、最高でもなく、古代インドにおいて、そんな地味な体験をした者が、あまたの修行者から称賛されることはなかっただろう。

 涅槃に至ると、一切の煩悩から解放され、不正不滅の境地を得、とある。これは、無になることとは違うと私は考えた。無になった後に不正不滅の境地を得る=光り輝く天国を見ると、私は解釈した。

 涅槃において人は「仏」や「永遠の世界」をみる。それまで真っ暗だった世界が白く光り、その奥にある光輝く荘厳な世界に入る。光の中で仏達が動き、話し、外に出ると美しい自然の木々の緑を感じる。それは死んで、成仏してからゆきつく、天国のそのものだ。そんな瞑想をしたから、人は素晴らしいものを見たと感動して、それを教える仏陀に集まったのではないだろうか。

 そんな瞑想なら感動する。悟り、神の世界を覗き見る。それはそれは素晴らしい体験だろう。だからこそ、それがブッダの時代にそれが開眼の目安となり、誰もがその境地を憧れたのではなかろうか。

 無我自体は生きることの否定で、実は褒められたものではない。その後に起きる天国への入境こそが、涅槃で目指すものだ。それが語られなくては、涅槃の価値などわかりようもない。しかし、現在、日本では涅槃の瞑想は煩悩を消すことまでしか説明されない。その何が素晴らしいのか。涅槃が無我の極致以上のものであることは、そこから何も伝わらない。

 無我を極めたあとに瞑想者は光り輝く仏達や天国をを仰ぎ見る。それは覚者のみが見る空前絶後の境地である。だからこそ、僧侶はみな目指した。それが涅槃ではないだろうか。ここでは、涅槃は、無我の極致におけるわずかな解放ではなく、その後に飛躍して、仏や仏のいる世界を見ることだとする。

なぜ涅槃の境地から「天国」が消され、「無我」が残ったのか?
 真の涅槃に至る瞑想は、ブッダの指導で大勢が解脱したようにさほど難しくない。瞑想の心得があれば、短期間で習得できる。修行僧があっという間にゴールにたどりつく。すると、誰もそれを長い時間をかけて修行しようとは思わない。すぐに次のものに関心が移るだろう。ブッダの死後、大勢が解脱して、もう求めるものがないと教団を去ったのだろう。この教理のままでは仏教徒が減る。それを危惧した教団が、涅槃の核心的な部分(天国を見る)部分を隠した。涅槃に至る直前(無我)までしか残されていないのは、そのためだろう。

 今は涅槃に至る直前の無我までの説明しか経文にない。無我は難しく、そこに到達しても、それが何の解放か、何の解脱かもわからない。無我が最終地点なら、ほとんどの者は暗闇の中で迷い、解脱・涅槃に到達しない。ずっと、修行をし続けることになる。僧侶は開眼の後に教団を去らない。仏教存続のために、涅槃は塗り替えられたのである。

 仏教学者が経文からこれを検証してほしい。これは私の推測である。なお、検証するには過去のブッダや弟子を透視して、彼らの涅槃を調べるとよい。それはできるが、私はここではしない。

今回、涅槃の瞑想として、無我の境地と涅槃(天国)を見るものを説明する。

--説明2 易しいほう--

 涅槃とは
 瞑想でゆきつく境地である。煩悩を消した先にある静かな境地とされる。無我になり、自分を消したあとに一工夫するとゆける。ブッダの生きていた頃、解脱して涅槃を見た者は多かった。本来、そんなに難しい瞑想ではない。

 だが、自分を消して、真っ暗な中にたたずむ無我の境地だけでは何も素晴らしくなく、誰もそれを開発したブッダにつき従おうとは思わなかっただろう。ブッダは煩悩を消しただけでは、弟子をそんなに作れなかった。

 無我に到達してから、そのあとに開ける天国の世界。それに至る瞑想をブッダは弟子たちに示した。それまで無我で真っ黒だった視界が、一気に明るくなり、光輝く世界へと入る。美しい荘厳な建物の中には仏達がたたずみ、喜びに満ちて団欒して、叡智の会話をする。仏と共に視界が動き、仏が外に出ると美しい緑の木々、清潔な地面、森などが広がる。それはまさに天国だ。古代の瞑想家はそれに感動した。それでブッダの偉大さを認めた。天国を見るまでが、真の涅槃の瞑想なのだ。

 涅槃は死によってゆきつく世界=天国をさす。本来、死によってしかゆくことはできない。が、瞑想で涅槃に至ることもできる。

 実は、涅槃に至る瞑想は、テーラワーダにある。何の経典か忘れたが、順に、感覚や意識などを止めてゆく。すると、涅槃に至る。詳しくは「仏教思想の0ポイント」6章の半ば。

 涅槃に至る手順
 瞑想は1, 煩悩を消して、無我の瞑想をする。2, その状態で首をあげて見上げると、涅槃(天国)が見える。この順だ。詳しく解説しよう。

 ここで説明するのは、涅槃にいたる二番目に簡単な瞑想だ。最も簡単なのは、『仏を見る瞑想』だった。部位に入り、左によると、天国が見えた。ここでは一度、自分を消して無我になり、そこから上がる。前のものより、ちとややこしい。仏教の教義のように六道輪廻を回って、転生を体験して、涅槃にいたるのが本格的でかつ、最も難しい瞑想だ。仏教の真髄はそこにある。それは、『六道輪廻をみる瞑想』を。

 1, 無我になる瞑想
 瞑想して、「自分が消えた。」ことをイメージする。部屋に自分の肉体が本当に存在しないことを想像する。「肉体が空間から消えた。」ことにする。肉体を消すと、欲求、五感、知覚、運動神経など段階1-4の欲求・認識が消える。すると、瞑想の視野が真っ黒になる。

はじめはここ
In_head01
自分を消して無我になるとここに瞑想の目がゆく。前は真っ黒
muga
視界はこんなに暗い
selfless_Black_black
 さらに「外の世界」を消す。周辺の物がない。空間がない、宇宙がないと想像する。すると、段階5-14の認識が消える。意識は理性(自分の考え)、自己の社会性、空間、植物、動物などの認識がある。それらを消す。これで無我に至る。

実際は、自分の肉体を消す(この空間に自分の肉体は存在しないと思い、振る舞うこと)だけで、十分に無我の境地に達する。

消す前
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消した後
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 目前に黒がある。無我の瞑想をすると、視界は真っ黒になる。自分は真っ暗の中にいるように思ってしまう。

正面の図。
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自分を消して、無我になると目前が真っ黒になる。みえる暗黒は運動神経の部位の色だ。無我をすると、黒の運動神経のエリアに入る。
selfless_Black_black
瞑想が長いなら、この真っ暗な中にいる境地は何度も体験したはずだ。

 これが日本の仏教で説明される無我(涅槃)の境地である。なぜ、真っ暗で何も感動もしないものを見る境地が、最高でゴールなのか。多くは、納得できないだろう。しかし、慌てるな。この後、驚くべきことに光輝く世界が見えはじめる。

 B, 涅槃の境地を見る瞑想
 無我の瞑想の続きだ。その状態を保つこと。

1, そこから、真上をみあげる。目前は暗い。前の上、はるか真上はやや明るく光る。もしくは白く輝く。何もみえないなら、目前に高いたんすがあると思う、首を上に伸ばして、背伸びしてたんすの上から前をのぞく。そのようにする。それでも見えないなら、もっと首を上げて、上を見る。すると、瞑想の目は、下のエリアから上のエリアに移動する。
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無我から上に飛ぶ。はじめは黒いエリアの前にいる。そこからあがると、最初に暗い灰色のエリアがみえる。さらに上がると白く光るものがみえる。そこで止まらないでもっとあがると、緑や黄色などの明るい涅槃の世界がみえる。

 天国と仏を間近から見る。
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このように急に光輝く世界が開ける。そこに近づくと、涅槃の世界(天国)がありありとみえる。
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これはイメージ。真ん中に仏(守護霊)がいる。周りに彼がいる部屋や町の様子が見える。仏を見る瞑想と見えるものは同じだ。違うのは、間近から見ていることだ。無我の瞑想をしてから、仏を見ると、間近に見える。

 これが、煩悩を消したあとに到達する涅槃の境地である。これを見えたあなたは開眼した。これからいつ何時も、無我になり上を見ると、これを感じられる。

 解脱したのだ。やった。念願成就である。しかし、このようにして、仏がみえるのは、比叡山でも高野山でもよく知られているようだ。高野山では無我になったあと、鼻より前に出て、顔の前をあがり、また中に入り、外回りで仏を見るようだ。それをとある方から教えてもらった。
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ただ涅槃を見ても、瞑想で光輝く世界を見ただけで、何も悟ってないので、あなたは何も賢くはなっていない。この仏は語りかけてこない。その姿や行動から学ぶしかない。仏を見る瞑想のように、仏の声は聞くことができる。天国語をしゃべっているので、はっきりと聞こえる人は聞いたら、為になるだろう。

 C, 探検しよう
 くっきりみえると、仏(守護霊)や天国の様子がよくわかるだろう。彼は、けっしてあなたに話かけてこない。彼と会話を試みてもムダだ。話しかけてきたら、それは別の魔である。

 涅槃が目前にみえるようになった時に、くっきり見るには顎の下、5-6cmあたりを見ること。よりはっきりと天国が見える。

 仏が守護霊である証拠は?
 彼の見て感じるものを、彼の脳内を感じて調べよう。読心術ができる人は簡単にできる。彼は君と同じ景色を見ているならば、彼は天国から君を指導している霊だ。

 彼は天国の社会で活動する。彼は朝、昼、夜と違うことをする。彼の居場所も異なる。よく見える人は研究しよう。

 質疑応答
 Q, 涅槃の瞑想で天国を見たら、解脱したことになるか?
 A, はい。天国が見えたら、解脱したことになる。ただし、君の叡智は完成されてはいない。叡智は学問(科学)を学ばないと身につかない。
  
 Q, 涅槃に至ると、最高の叡智を手に入れるか?
 A, いいえ。涅槃をくっきり見える人は、天国の光景や人々の様子から彼らの雰囲気は学べる。天国の叡智(学問)は地上からうすぼんやり見たところで身につくものではない。はっきり見えない人は、守護霊の行動をぼんやり曇りガラスを通して、眺めるだけ。少ししか身につかない。
 
 Q, 覚者になってもそれでは無意味では?
 A, いやいや。仏教の理想の境地に到達したのだから、悲願が達成されて、多くの僧侶は感激して、うれしさの涙が止まらないだろう。仏教のめざす境地にたどりついて、本望ではないか。しかし、境地を見ただけで、瞬時に人格者になれないし、万能の叡智を手に入れることはない。天国を見るテレビを手に入れたくらいの意味がある。脳内テレビを手に入れた途端に、過去の偉人のごとく賢くなれるなら、楽だ。実際、テレビを買って学習番組を何時間も見ないことには、何事も上達しない。天国の霊の言動をつぶさに観察すると、学べることが多々あるだろう。
 
誘導瞑想
 次の言葉を考える。 「日本製の力で、******を体験させてください。どうぞ。」 そして、瞑想しよう。誘導瞑想を体験できる。***には下記の数字か瞑想したいものの名を入れる。

このブログをネットで見た当日のみ、体験できる。1回につき3-5分。時間を2時間まで指定できる。やめたいと思うとすぐに終わる。例外もある。

1, 「無我の瞑想をX分してください。」と思う。無我の瞑想が行われる。黒く見える境地のほうが、喜ぶ人が多いので、そこに行ける。

2, 「涅槃の境地の瞑想をX分してください」と思うこと。そこから上がり、涅槃(天国)の境地が見える。これは段階0の仏だ。

 真正面にいる仏(守護霊)が誰かをつきとめよう。彼の周囲を見渡して、彼がどこにいて、何をしているか。調べよう。

では、また

2020/11/7 修正